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以前、別のところで紹介したのですが、改めてもう一度、最近気になっている本を紹介します。


表題になっている、この本のタイトルは、ドイツの作家・芸術批評家・消費文化批評家であるヴォルフガング・ウルリヒの「Tiefer haengen(低く架ける)」をドイツ文学研究者・翻訳家の満留伸一郎が『芸術と向きあう方法 低く架ける』として和訳したものです。


このタイトル、Tiefer haengenとはドイツ語の表現で、「あることをあまりに大げさに受け取ってはならない、感情的になるだけではなく、客観的な距離を保って観察すべきだ」、という考えを表現する際に普通に使われます。
また、訳者が解説しているように、これをこの本のテーマである、「近代芸術概念の批判的考察」に照らし合わせると、要は「いままで芸術のことをあんまり大げさに考えすぎていたのではありませんか?」という意味になるでしょう。ショーペンハウアー、アドルノ、シラーをはじめとするかつて芸術観を作ってきた者たちへのアイロニカルな批判を繰り広げる本書は、なかなかに挑発的です。ここにあるのは、高尚なものとして芸術をものものしく祀り上げる(高く架ける)近代的芸術観は、決して絶対的なものではなく、それにいままさに変化が起きつつある、という観点です。「超越」の欲求は、あくまでセンセーショナリズムに対する欲求でしかなく、熱心に通常のカテゴリーすべてから芸術を切り離そうとする人々は、最上級でセンセーショナルなものに憧れているーつまり平凡な枠組みをすべて破壊してしまうものに憧れている。それどころか、モダンアートの展開の多くはこの憧れだけで説明がつくのではないでしょうか。しかし、このような芸術に対する過大な要求が、ときに堕落を招いたのではないか。ゆえに、芸術の脱超越化を通して、再びふさわしい地位を取り戻すことが求められている。ショックやとりつくしまのない距離感や神秘的傾向ばかり当てにしない、人間的経験の鏡として機能するような芸術。その節度のある芸術においては、普段見過ごされるものが主題として慎重に扱われたとき、存在する正当性がそれに与えられたという印象が生じる。根本的に異なることでもなければ、彼岸に到達するのでもない、既知のものの中からなにかにつながる出口を示すこと。
ブレヒト、そしてドイツの彫刻家レンブルックの研究家である、私の大学時代の恩師の言葉を借りれば、既知のものを「シフトする」ことのできるものこそが、優れた芸術であると言えるのではないでしょうか。


・・・とはいえ、こういった議論が盛んで、かつこの手の本が8000部も売れる国であるドイツと日本の状況はかなり違うと言わざるをえないし、かといって、「芸術」に関してある種のコンセンサスが出来上がってしまってる国にはそれなりの問題もあるわけで、そのようなドイツでよく見かける、芸術制度(の共通理解があるという前提)に寄りかかっている作品を前にすると、なんか違和感を覚えもするのですが。


そういったこともあって、制作に必要な労力と能力が高い次元で求められるコンテンポラリーダンスに惹き付けられるのかもしてません。ぼくが真剣に見はじめた(ピナ・バウシュが最初でした)10年前から比べると、現代美術の領域における、いわゆる「パフォーマンスアート」が注目されはじめ、その波及効果もあって、美術の文脈でダンスが取り上げられることも多くなってきましたが、こと批評に限っていえば、いつも必ずがっかりさせられてしまいます。日本における舞踏の理解に関しては正直あまり知らないのですが、こと欧米のコンテンポラリーダンスをきちんと歴史や表現そのものにそった形で批評しているのはまずめったにお目にかかりません。
フランスではジャン=リュック・ナンシーがマチルド・モニエと対談した本があったり(内容はあまりよくありません。哲学者はしばしば美術や舞台芸術をひきあいに出しますが、作品そのものの読解と魅力の伝播には正直なっていない場合が多いですから)、パリ第8大学ではダンス研究の専門の学科(?)があったりします。
そういった完成度が高く、かつ、こちらが思考し、分析する素材として奥深い内容を提供してくれるダンスに対して、きちんと見る側が育っていないのが現状のようです。


先日東京で行われたアラン・プラテルバレエ団の「Pitie!」は、友人が出演していたにもかかわらず見に行くことができず、また、舞台を見た友人たちからはたいへんな絶賛のコメントをメールで受け取り、見逃したことを相当悔やんでいたのですが、これからのヨーロッパ公演には、格安航空券で駆けつければ、なんとか見に行けることがわかり、俄然盛り上がってきました!しかも、ダンサーのホテルの部屋に一緒に泊めてもらえるそうで、そういった融通のきき具合とか、ダンサーの気さくさなども、ここまでぼくがダンスにのめり込む理由のひとつかもしれません。


いずれにせよ、そのような形で練り上げられ、多額の予算がかかり、世界ツアーをしつつも、芸術の原初の驚きと見る者に思考する機会を与えてくれるダンス(いわゆる舞台・劇場でのダンスパフォーマンス)とパフォーマンスアートとしてのダンスは、どのような違いがあるのか。ぼく自身、相変わらず現代美術としてのパフォーマンス(トレーニングされたダンサーやコレオグラファーが制作したものではないもの、の意味で)には違和感を持ち続けているのですが、その理由はどこにあるのか。それを知りたくて、ティノ・セーガルの作品を考えたかったのだと思います。

permalink  April 21, 2009

6 april 2009


hey hey,
how are you doing?
i'm quite fine in sweden.
the day i arrived, i directly took a train to go to the city called uppsala where my friend lives.
then she cooked dinner for me, and my days in europe started so.
the next day, we had a short trip to stockholm, which is about an hour.
it was extremely bright day, the beautiful sunlight came up to everyone and the whole city seemed so happy.
we went to the modern art museum, and we saw the retrospective of andreas gursky, a famous german photographer.
recently i was really deeply into dance, or a feelig of "touch" as a perseption, i couldn't feel anything from kinda "well done" art.
for myself, to be in europe is quite severe stuff at the same time. i should think anyway all the time about how our japanese culture is separeted from oxidental one even though we thought we were same part of it. no, it's not.
especially when i was with my friend, a real clever girl who studies in one of the most famous university in sweden and study law so hard.
as today the weather was not so good, we just walked around a bit and studied together.
i was reading a book about jean luc nancy by derrida. i'm gonna buy another one as here i am in a famous university town, you can get good books for studying, i guess.
oh and i've visited to the historial museum of the university. so everything was so visiblly connected to ancient roman culture.
then i couldn't stop thinking what was the difference between oxidental world and our world.
especially when i read a western philosophy and talked with oxdentals about "thier" knowledge. difficult.
anyway i re-found that was why i came to europe for commiting both cultures.
i'm not just adopting, but i don't want to go back and hide myself into the comfortable japanese culture as an excuse.
trying to find my way---it seems quite difficult to concentrate to my work. but i'm fine.
it's not so damn cold, it's acceptable. hope you are fine. i'm less sensitive i feel, but it doesn't meen any bad thing.
at the grace of that, i don't need to be unstable because of my sudden change of feelings---i'm so stable now.
so hope you have a nice time and i must say that your mail made me happy as well. thanks.
hiro


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9 april 2009

どうも。

やっぱり西洋の文化的な支配力って本当に強くて、例えばスウェーデンって国はフランスやイギリスみたいに、あからさまな中華思想はないんだけど、それでも、「自分たちは良いことをしようとしているんだ」という信念が、簡単に偽善に傾きかねないことを知らないような気がする。ぼくはそういうのが嫌で、危険だと思うからやってきたわけで。
例えば誰もがポップミュージックを聞いたり、オバマを支持したりするなかで、大切な感覚的なものが抜け落ちていくと思うんだよね。


スウェーデンで泊めてもらったふたりの女の子は、それぞれ最難関大学の法学生で国連で働いた経験があったり、医学生だったり、マジョリティーの思想にどっぷりつかってるタイプなんだよね。そういう人たちはおそらくカンボジアから養子をとったり日本人の彼氏をもったりできるんだろうけど、そのへんの「罪滅ぼし」的な感覚は、善意からでていようと、ときに本質(ヨーロッパがかつてしてきたこと、キリスト教的なるものの強引さ、残酷さなど)を隠してしまう気がする。そういった作られた感覚としての興味が、「オリエンタリスム」を招くんじゃないかな。


(ドビュッシーから多くを参照してる)久石(譲)にも宮崎アニメにもなんか違和感を感じるのは、そのへんのおべっか使ってる感じにだったのかって思った。ぼくは実は彼のアニメはほとんど知らないんだけども。


作られた「興味」や「好み」ではない感じのこと。説明しがたいけど、外国人の養子をとったり知りもしないセラピストなどに自分の悩みをべらべらしゃべったりするのは、やっぱdevelopped ideaのひとつにすぎないんじゃないかと思ってきていて。
もちろんそういうアイデアや発想がなにかを救うことは充分に考えられるけど、やっぱなにかが違うと思うんだよね。反射的に「気をつけろ!」って思ってしまう。
世界中のみんながマドンナ聞いてるとか、実際どういうことなんだろう?


われわれは、柔術の使い手のように、自分は素手であっても、相手の持っている武器で相手に対抗することが一番の道だと思う。ぼくは西洋人と議論になると、デリダのdeconstructionやベルクソンのオカルト趣味を利用して、西洋語で西洋人にケンカを売ったりしている。まあ、あんまり勝てないけど。


西洋の言語や西洋のアートを持ったわれわれは、しかし、その奥底で日本語や違った思想を持っている。
その二重性こそが武器になっていくからね。面倒ではあっても、西洋人とからむのを辞めてはいけない。相手を知らないと、自分のからに都合良くとじこもってしまうからね。
いわば、なんとかして現実にコミットしつづけることが必要だと思う。


ひろ


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20 april 2009


別に日本だけの問題じゃなくて、どこの国でもこういう問題ってあるんだけど、やっぱそれって「制度」っていう政治性に支えられている気がする。
抽象的だったり情報が少なかったりするにもかかわらず成立するとしたら、それは制度を信じきっているからではないかな?その感じというのは、西洋(や日本もそうかもしれないけど)のエリートが好む"人権問題嗜好"(本当にこういう話が好きな人が多いこと多いこと...もちろん悪いことじゃないんだけど、なんか気持ち悪いというか。。)などにも絡んでくるんじゃないかな?
彼らは、あたかも自分たちの行いが完全に正しいものとして振る舞い、そのために彼らから遠く離れた北朝鮮の問題や、チベットの問題を論議する。
もちろん、それ自体が間違っているわけではないのだろうけど、そのシステムや制度、政治に対する過剰な信頼感とバランスの欠如は危険を伴うものだと思う。
いつでも興味を持っているふりをしながら実際にはコミットしない、という圧倒的な非政治性。
ぼくが、「私」というタームをどうしても議論に持ち込みたいのは、それを乗り越えるためだ。
例えば、Taner Ceylanが自身ゲイであるということをかなり性的な意味で扱うこと(しかもそれをトルコでやっている!ジュリー・ニオシュのMatterシリーズに登場するモロッコ人のベリーダンサーを思い出す。イスラム圏で身体を露出させて表現することが孕む困難といったらもう!)や、Anders Petersenの毛が生えたプッシーの写真をめぐるJohan Cronemanのテキストに、あくまで私の生活をベースとしながらそれを外の世界と戦うための武器にしているという視点が見える。
そのため彼らは露悪的でもないし、かといって諦めてもいない。作品は実際「美し」かったりするのだけど、それは彼らがそういった感覚に「触れる」ことのできる距離にいるからではないかな?


エストニアの写真雑誌で見つけた「Homefucking is killing prostitution」とはいいタイトルだと思う。写真自体はつまらなかったけど。別のページでエストニアの美術大学の写真学科の展示風景が紹介されていたけど、テーマが「Madness」であったこと、それに去年流行ったエストニアのポップソングのタイトルが「抑うつ的なエストニアの小さな街」であったところに、いまだ露悪的に振る舞うことで現状に対処しようという姿勢が見えるのがこの国の少し残念なところではあるけれど。ヨーロッパにありながら、欧米の流れとは違う文化を生みだしている点には興味があるけれど。古い、とは思うけども。


いずれにせよ、われわれももう少し自分自身に「触れ」て、そこから制作していくことが必要な気がするよ。

permalink  April 20, 2009
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My friend who just came back from a short trip to New York gave this information:
An exhibition of Taner Ceylan called "Abstraction of Nothing" in I-20 Gallery.
http://www.i-20.com/exhibition.php?exhibition_id=231
And also Ceylan's own page:
http://www.tanerceylan.com/


Then I found an interesting coincidence to an exhibition which I saw in Stockholm, the Anders Petersen's one.
Of course their media is different (painting and photography), and also artists' age are different.
But as it's written in GunGallery page: http://www.gungallery.se/ (please check "Current exhibition" part), we need somehow a kind of savage thing.


I'm in Tartu, Estonia now. I still don't know how to reach her.


permalink  April 20, 2009
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