hirohisakoike.com

6 april 2009


hey hey,
how are you doing?
i'm quite fine in sweden.
the day i arrived, i directly took a train to go to the city called uppsala where my friend lives.
then she cooked dinner for me, and my days in europe started so.
the next day, we had a short trip to stockholm, which is about an hour.
it was extremely bright day, the beautiful sunlight came up to everyone and the whole city seemed so happy.
we went to the modern art museum, and we saw the retrospective of andreas gursky, a famous german photographer.
recently i was really deeply into dance, or a feelig of "touch" as a perseption, i couldn't feel anything from kinda "well done" art.
for myself, to be in europe is quite severe stuff at the same time. i should think anyway all the time about how our japanese culture is separeted from oxidental one even though we thought we were same part of it. no, it's not.
especially when i was with my friend, a real clever girl who studies in one of the most famous university in sweden and study law so hard.
as today the weather was not so good, we just walked around a bit and studied together.
i was reading a book about jean luc nancy by derrida. i'm gonna buy another one as here i am in a famous university town, you can get good books for studying, i guess.
oh and i've visited to the historial museum of the university. so everything was so visiblly connected to ancient roman culture.
then i couldn't stop thinking what was the difference between oxidental world and our world.
especially when i read a western philosophy and talked with oxdentals about "thier" knowledge. difficult.
anyway i re-found that was why i came to europe for commiting both cultures.
i'm not just adopting, but i don't want to go back and hide myself into the comfortable japanese culture as an excuse.
trying to find my way---it seems quite difficult to concentrate to my work. but i'm fine.
it's not so damn cold, it's acceptable. hope you are fine. i'm less sensitive i feel, but it doesn't meen any bad thing.
at the grace of that, i don't need to be unstable because of my sudden change of feelings---i'm so stable now.
so hope you have a nice time and i must say that your mail made me happy as well. thanks.
hiro


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9 april 2009

どうも。

やっぱり西洋の文化的な支配力って本当に強くて、例えばスウェーデンって国はフランスやイギリスみたいに、あからさまな中華思想はないんだけど、それでも、「自分たちは良いことをしようとしているんだ」という信念が、簡単に偽善に傾きかねないことを知らないような気がする。ぼくはそういうのが嫌で、危険だと思うからやってきたわけで。
例えば誰もがポップミュージックを聞いたり、オバマを支持したりするなかで、大切な感覚的なものが抜け落ちていくと思うんだよね。


スウェーデンで泊めてもらったふたりの女の子は、それぞれ最難関大学の法学生で国連で働いた経験があったり、医学生だったり、マジョリティーの思想にどっぷりつかってるタイプなんだよね。そういう人たちはおそらくカンボジアから養子をとったり日本人の彼氏をもったりできるんだろうけど、そのへんの「罪滅ぼし」的な感覚は、善意からでていようと、ときに本質(ヨーロッパがかつてしてきたこと、キリスト教的なるものの強引さ、残酷さなど)を隠してしまう気がする。そういった作られた感覚としての興味が、「オリエンタリスム」を招くんじゃないかな。


(ドビュッシーから多くを参照してる)久石(譲)にも宮崎アニメにもなんか違和感を感じるのは、そのへんのおべっか使ってる感じにだったのかって思った。ぼくは実は彼のアニメはほとんど知らないんだけども。


作られた「興味」や「好み」ではない感じのこと。説明しがたいけど、外国人の養子をとったり知りもしないセラピストなどに自分の悩みをべらべらしゃべったりするのは、やっぱdevelopped ideaのひとつにすぎないんじゃないかと思ってきていて。
もちろんそういうアイデアや発想がなにかを救うことは充分に考えられるけど、やっぱなにかが違うと思うんだよね。反射的に「気をつけろ!」って思ってしまう。
世界中のみんながマドンナ聞いてるとか、実際どういうことなんだろう?


われわれは、柔術の使い手のように、自分は素手であっても、相手の持っている武器で相手に対抗することが一番の道だと思う。ぼくは西洋人と議論になると、デリダのdeconstructionやベルクソンのオカルト趣味を利用して、西洋語で西洋人にケンカを売ったりしている。まあ、あんまり勝てないけど。


西洋の言語や西洋のアートを持ったわれわれは、しかし、その奥底で日本語や違った思想を持っている。
その二重性こそが武器になっていくからね。面倒ではあっても、西洋人とからむのを辞めてはいけない。相手を知らないと、自分のからに都合良くとじこもってしまうからね。
いわば、なんとかして現実にコミットしつづけることが必要だと思う。


ひろ


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20 april 2009


別に日本だけの問題じゃなくて、どこの国でもこういう問題ってあるんだけど、やっぱそれって「制度」っていう政治性に支えられている気がする。
抽象的だったり情報が少なかったりするにもかかわらず成立するとしたら、それは制度を信じきっているからではないかな?その感じというのは、西洋(や日本もそうかもしれないけど)のエリートが好む"人権問題嗜好"(本当にこういう話が好きな人が多いこと多いこと...もちろん悪いことじゃないんだけど、なんか気持ち悪いというか。。)などにも絡んでくるんじゃないかな?
彼らは、あたかも自分たちの行いが完全に正しいものとして振る舞い、そのために彼らから遠く離れた北朝鮮の問題や、チベットの問題を論議する。
もちろん、それ自体が間違っているわけではないのだろうけど、そのシステムや制度、政治に対する過剰な信頼感とバランスの欠如は危険を伴うものだと思う。
いつでも興味を持っているふりをしながら実際にはコミットしない、という圧倒的な非政治性。
ぼくが、「私」というタームをどうしても議論に持ち込みたいのは、それを乗り越えるためだ。
例えば、Taner Ceylanが自身ゲイであるということをかなり性的な意味で扱うこと(しかもそれをトルコでやっている!ジュリー・ニオシュのMatterシリーズに登場するモロッコ人のベリーダンサーを思い出す。イスラム圏で身体を露出させて表現することが孕む困難といったらもう!)や、Anders Petersenの毛が生えたプッシーの写真をめぐるJohan Cronemanのテキストに、あくまで私の生活をベースとしながらそれを外の世界と戦うための武器にしているという視点が見える。
そのため彼らは露悪的でもないし、かといって諦めてもいない。作品は実際「美し」かったりするのだけど、それは彼らがそういった感覚に「触れる」ことのできる距離にいるからではないかな?


エストニアの写真雑誌で見つけた「Homefucking is killing prostitution」とはいいタイトルだと思う。写真自体はつまらなかったけど。別のページでエストニアの美術大学の写真学科の展示風景が紹介されていたけど、テーマが「Madness」であったこと、それに去年流行ったエストニアのポップソングのタイトルが「抑うつ的なエストニアの小さな街」であったところに、いまだ露悪的に振る舞うことで現状に対処しようという姿勢が見えるのがこの国の少し残念なところではあるけれど。ヨーロッパにありながら、欧米の流れとは違う文化を生みだしている点には興味があるけれど。古い、とは思うけども。


いずれにせよ、われわれももう少し自分自身に「触れ」て、そこから制作していくことが必要な気がするよ。

permalink  April 20, 2009
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