かつてフォンダシオン・カルティエが出したエグルストンのカタログでは、後半部分に載っていた日本で撮影したパート(日本で買ったばかりのフジの6x9判カメラで撮影したもの)がとてもつまらなくて興ざめしたことがあったが、画質や色合い(ライカ+ダイトランスファーでなければエグルストン写真の魅力はなくなってしまうのか?)によって何かが変わってしまうのか、それとも撮影場所(アメリカのディープ・サウスでないとダメなのか?)によって何かが変わってしまったのか。そういえば、フランスのダンケルクを撮ったものもつまらなかったような気がする。うろ覚えだが。となると、アメリカというのは相当に魅力的な場所なのであろうか。あるいはエグルストンの撮り方にアメリカの南部が合っていたのか。
一方、ティルマンスの場合は場所や機材(大方限られてはいるが。コンタックスT3、もしくはコンタックスの一眼レフなど35mm判であろうか)に関わらず、ある共通感覚を得ることができる。どこそこで撮ったものがどこそこで撮られたものを上回る(あるいは下回る)ということがあまりない。そもそも、シリーズとして撮影したりしているようでもなく、すべての写真が等価に置かれている。しかし、それでもある写真にとりわけ惹かれたりするとき、そこにあるのはなんなのだろうか?
ティルマンス以降に出てきた作家、たとえばライアン・マッギンレイなどは、意外にも「決定的瞬間」派のような気がしてきている。ニューカラー的なネガフィルム特有の色合いや撮影対象(ヒッピー的な若者のヌード)とは裏腹に、撮影に関しては意外にも名作志向というか、ある瞬間をおさえる、というような感じだ。それもあって、すんなりとファッションの仕事ができるのかもしれない。かつてのボスウィックに似ている気がする(写真自体はマッギンレイのほうがはるかに良いが)。また、ピーター・サザーランドはどうかといえば、等価に撮っているように見えるし、「ニューカラー」的なアプローチではあるが、どうしても一連のシリーズ的にまとめようとしてしまうし、家族を撮ったものなどは、ユルゲン・テラーの安易なコピーに見えてしまい、1枚で見たときにはそこまで魅力を感じない。そして、アリ・マルコポロスはどうかというと、これもまた難しく、彼の場合は撮影する小さな対象(息子、おもちゃ)と、想像する大きな対象(社会とかではなく、アポロの地球帰還などのようなロマンティックでファンタジックな出来事)の同時共存にとても魅力を感じるが、彼の使うコピーというメディアを考えたとき、どこまでがグラフィカルな理由で(あるいはそうでなく)やっているのか、読みきれないところがある。いずれにせよ、以上にあげた3人の作家は、ポストモダンの時代の、身の回りの小さな物語を語るストーリーテラーという意味では非常に興味深い。
しかし、これでもまだエグルストンに感じる魅力を説明しきれない。インスタレーションに凝るでもなく、いわゆる名作主義的(それぞれの写真が連携するというよりは独立している)でありながら、なぜ、ポストモダンのいまになっても惹きつけるのか。そのあたりのヒントを、古くて新しいスナップショットの雄、スウェーデンのJ・Hエングストロームに見られるのではないかと最近思い始めている。エングストロームの写真は、いわゆるスナップショットで、わかりやすい真新しさはない。しかし、例えば日本の森山大道などと比べてみたときに、森山は社会や都市など、理念的に自分の外側にある対象を撮影していくのに対し、エングストロームは森山的、あるいはアントワーン・ダガタ的なセクシーさを持っているにも関わらず、その対象は大文字の「社会」というよりは、家族や身の回りの小さな物語に向けられている。しかし、それ以外のいわゆる「外側」の光景も同時に数多く撮影しており、それも白黒・カラー問わず、機材もコンパクトから大判(中判か?)、デジタル(おそらく)まで操り、トイカメラ的に画質が低かったり、異様にきれいだったり、自然光が美しかったり、フラッシュでギラギラさせてみたりしている。すなわち、なんでもありなのだが、彼がかつての数多くのスナップシューターと違うのは、態度やスタイルといてそうしているわけではなく、カメラというワンダーを使いながら、自分の周りの小さな出来事(あるいは同時に社会的な関心)を撮影していくときに、複眼的に「なってしまっている」(「している」のかもしれないが)ように見える点だ。ティルマンスはポストモダン社会における写真のありようをシェーマ化してみせたが、それによって、本来の自分関心からそれた部分の物事、あるいは多少のパッション(なんたる語、もともとは受難)を差し引いた形に見える写真を多く作ることになってしまっているような気がする。もっともそうした彼の広大な視点が、写真とアートをここまで違和感なく結びつけてくれたのだが。
だがしかし、写真の魅力を考えていったときに、どうしてそれだけでは物足りなくなってしまうのか。ある面でティルマンスがエグルストンを越えられないとき、そこに必要な身振りは、アートの文脈に回収されてしまうだけのものでもなく、あるいは写真の世界に付き従うだけでも得られないものであうだろう。それぞれの世界を、身近で小さなストーリーを軸に繋ごうとし、しかもそれは引きこもりではなく、内側の感覚そのままに違和感なく外側の世界に接続しうるとき、それは架け橋となって、写真の魅力をさらに引き上げてくれるだろう。エングストロームの写真にはそれがある、かもしれない。エグルストンとティルマンス、二人の作家を繋ぐ方法はまだまだ他にもあるかもしれない。