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ヴィリニュス滞在も(どうでもいいことですが、リトアニア語で書くと、Vilniusなのでヴィルニュスだと思うんですが、日本語表記はなぜかヴィリニュス。どうしてかなと思っていたら、ロシア語では(ラテン文字で表すとすると)Vilinusのように書くので、それが理由かと。この街の名前はロシアから伝わったんでしょうね)きょうで最終日。あしたの早朝には空港に向かいます。
せっかくなので、記念にツェッペリンという例のリトアニア料理(もちもちしたジャガイモの超巨大ニョッキの中に挽肉が入っていて、ベーコンチップ入りのサワークリームをかけて食べる)をランチにいただき、さっそく胃もたれ。重い。そのあとはこちらで知り合ったリトアニア人の友達と少しだけお茶をする。
やはり夏の間は地元っ子が少なくなって、観光客だらけになってしまうので、なんらかのプロジェクトをしたい場合には休み以外の時がいいですね。まあ、その休みの日じゃないときに来るのは困難ですが。
今夜は数少ないちゃんとしたミーティングのひとつがあって、写真フェスティバルのディレクターと会います。ああ、ドキドキ。これまでの感じだと、あまり成果は期待できませんが、それにしても自分の作品を説明することの難しさったら。しかもまた今までとは少し違った制作方法に切り替えている途中なので(ポートレート専科ではなくなりました。エングストロームについて書いたときにも思ったけど、必要であれば人物も撮りますが、人物写真を撮るために準備することはもうないだろうなと。いままでずっと協力してもらってたエストニア人のミューズLを撮っても、なんか違う感じになってしまっているので、いよいよ変化の時です。軽さにこそ本質は宿る、的なことをニーチェが言っていたような気がしますが、そういった意味で、写真に軽さを、そして深刻ではないながらも自分にとっては大切な小さなことを拡大も縮小もせずそのままとどめておくことができたらなと思います)、より説明するのが困難です。ホームページのトップの文章も書き直さなきゃな。そういったテクストも重要になってきそうな、今年のシリーズ「minimissing」。なんとかいいものになるといいなと思っています。
そう思ったときに、行為(アクト)ではなく動作(ジェスト)としての、しかも、緩やかさのなかにある非決定的で非説明的で、決して攻撃的でない、「動作そのもの」の魅力をトゥオンブリ(のとりわけ書かれた文字)に見たような気がしたのです。
ちなみに、29日に京都大学で開催される表象文化論学会(会員になりました)の若手研究者によるフォーラムが面白そうです。池田亮司の「Matrix」における、音と身体の境界についてだそうです。「聞こえる」とはなにか、とても興味深いテーマです。なにか写真研究に活かせないだろうか、そんなことばかり考えてしまいます。手は一向に動かず、ゆえに論文も一向に進んでいませんが、そもそも写真の何について論じたいのか、それがクリアにならないと、いままで書いてきたみたいなただの写真史や作家論になってしまう。写真の驚きとはなんであったのか、そしてそれがわれわれをなおもひきつけるのはなぜなのか?その糸口がつかめないと、このままずっと足踏みしつづけてしまいそうで怖いです。絵画はやはり手(身体)の問題で、写真は目(視覚)の問題、と言い切ってしまうわけにもいかないところがこのテクノ画像を語る難しさでしょう。なので、エングストロームが示した新しい写真の可能性同様、写真論も新しい「明るい部屋」を待っているはずだ、と思いたいのです。
permalink  August 23, 2009
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