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ギベールの読み直しから始まって、このところ、10年以上前に読んでいたフランス文学ばかり読んでいる。ほとんど一度は読んだことがある本なのだが、ずっと気になっていたジャン=フィリップ・トゥーサンの『カメラ』を読んだ。ギベールとは全くタイプの異なる、飄々とした文体は翻訳からもきちんと伝わってきて、緩やかに揺れ動き、ふらりと流れていくような文章はとても心地よい。
この本の終わりのほうでようやく登場する「カメラ」とは、主人公がイギリスからフランスまでのフェリーに乗っている間、深夜のセルフレストランでソファの隙間に挟まっていたカメラを拾った(盗んだ)ことに負い目を感じ、そのために、レストランを出てから階段を上り休憩室に戻るまでの間、やみくもにシャッターを切り、撮影済みのフィルムを取り出した後、カメラをデッキから海へ投げ入れて捨ててしまう、という銀と黒のコダックインスタマチック(110ポケットカメラ)である。
終始緩やかに進行する物語の中で、ここがテンポが早くなる唯一のシーンなのだが、後日、現像所で受け取った11枚の写真を見てみると、本来の持ち主が撮ったであろう、自分自身の姿と、その彼女、あるいはその二人が写っていた。他人のプライベートな記録を覗き見してしまうという気まずさを感じた後、自分が撮影した写真がないことに気づく。ネガを見てみると、24枚中11枚しか写っていなかった、のではなく、露光不足で主人公が撮影した写真はほんのわずかな痕跡を残す以外に、ほとんど何も写っていなかった。
写っていなかった写真(というモチーフはギベールの『幻のイマージュ』でも登場するが)をめぐって、主人公は、いままでは自分の中にある、決定的な「一枚の写真」というものを求めていた、と告白する。しかし、この写っていなかった写真によって、何かの目的を持って撮られたわけではないこれらの写真を通じて、はじめてそれから解放されるのである。とはいえ、小説の結びでは再び、瞬間を凝固させることへの願望が述べられているのではあるが、しかしながら、最後の最後で、もう一度、あふれ続け、流れ出る生への誘惑を抑えきれないという欲求が認められる。
この小説は、おそらくそのような瞬間を留めたいというものと、解放して流れ出るままにしておきたいという、ふたつの感覚の間のゆらぎにこそ写真の妙があるということをよく知っている。
だが、現像された11枚のなかの最後から2枚目の写真、そのカメラ元の持ち主の彼女がフェリーターミナルで写された写真の背後に、主人公の彼女の横顔が偶然きっちりと写り込んでいた、というエピソードによって、この小説が、瞬間の凝固と生の解放、という二元論だけではなく、カメラ=写真というものの、この不可抗力ゆえの面白さを、第三の可能性として指し示しているように思えた。
permalink  September 14, 2009
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