「minimissing」を見に来てくださった方には本当に感謝しています。どうもありがとうございました。
これからもどうぞよろしくお願いします。見に来ていただく時間がなかった方には、後ほど、このサイトで展示の様子を紹介したいと思います。
この展示では、私が写真制作において最も重要なものだと思っている、momentとintimeの存在を表わしたいと願いました。写真とは単なるイメージや記録ではなく、その瞬間が存在したということ、そしてその瞬間に感じることのできる内奥の、親密さ(intime)の存在を表わせる可能性への挑戦として、つまり、それらの存在を経験として、まずは自分が、そして写真を見た人が受け取ることができるために、なされるべきだと思うのです。
そのためには、まず写真家は決して傍観者や観客であってはならず、自らが体験した出来事のみを掛け金に、生きていることを感じる(je me sens vivre)ことが必要なのだと思います。現実とは、虚構のない演劇の舞台のようなものであり、それとは反対に、歴史とは起こったことすべてをないがしろにしているわけではないにせよ、意味として立ち上がってきた大きなサインのみをもとに編まれていくものだと感じています。歴史は語るに足らない小さな出来事や存在を退け、大きな物語のみを繋いでいくこと、つまり近代という装置そのものなのです。
そのことが招いたのが、悲劇の観客としての饒舌さ、つまり言論や写真やその他もろもろをすべて想起のみによって語るという過ちでしょう。戦争写真は、それを見た人が悲劇ゆえに快を感ずるという点で、まったく死のポルノグラフィーでしかありません。それに関する言論も、結局は傍観者としての視点から著されることがほとんどであり、経験はそこで雲散霧消してしまうのです。それゆえに、私は戦争に関するカントの饒舌を嫌い、むしろ(実際に戦争に参加した経験のある)老人の沈黙を評価するのです。
私は、そのような傍観者としての歴史から離れて、経験を存在(生)に結びつけていくやり方として、近代以前の哲学者(そして兵士だった)デカルトのことを思いました。
「...彼らは度々教会に行き、多くの祈りを唱え、髪を短く切り、断食をし、施しをするということを口実として、自分は全く完全であると考え、自分は神の有力な友であるから、神の気に入らないことを自分は為すはずはないと想像し、さらには、自己の情念の命ずることはすべて善き熱情であると想像する。しかし彼らの情念は、人間の犯しうる最大の罪を彼らに命ずることがある。例えば自分の思想に賛成しないというだけの理由で、都市を敵の手に渡したり君主を殺したり住民を皆殺しにしたりする」(『情念論』より)
写真について語るのではなく、写真とともに語るのでなければまったく意味をなしません。私が制作をしながら書くことにこだわるのは、それだけが、誠実さを表わす方法だと考えているからです。写真を撮るときにも、相手の存在を自分の内奥の、親密な部分でとらえ、それを経験するのです。
それはある意味で戦いです。しかし、それはアカデミーやアート業界や広く社会といったものとの戦いではなく、自分の内奥の、親密さと瞬間が存在したことを正確に、かつ誠実に、(想起するのではなく)経験することを諦めないための、自分との戦いなのです。
permalink January 7, 2010