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2010年5月27日から6月19日まで、リトアニア・ヴィリニュスのARKA Galleryというところで、
2010年度版の「minimissing」を展示します。
2009年の12月に新宿で展示したものとはかなり異なった構成になり、新作が半分近くを占めます。
日本のみなさまに見てもらえないのが残念ですが、がんばってやってきます。
5月18日に日本を発つ予定です。

今回の写真展の概要は、私が数回にわたるリトアニアでの滞在(2009年8月のヴィリニュスにある、
リトアニア芸術家協会でのレジデンスを含む)中に出会った人々や風景を、ごく個人的で
内密な仕方で撮影した写真を「日本人写真家の目から見た、個人的なリトアニアのイメージ」
として提示することにあります。しかし、私の制作の場合、いわゆるランドマークや観光名所を
訪ねるわけではなく、個人的にリトアニア滞在中に知り合った人々と会い、食事をし、
ときには泊めてもらい、話をしていくなかで見えてくる「日常」を、ことさら外国人からの視点から
ステレオタイプで捉えるのではなく、提示したいと考えて写真を撮っています。
一般的に思われているような「文化的な違い」を際立たせるものではなく、あくまで日常の生活の
中に入り込み、友人となってから撮影することで、はじめてそこにあらわれる親密さと瞬間性に
対する愛情を示すことできると考えています。
リトアニアで出会い、いまでも頻繁に連絡を取っている友人たちのサポートがなければ、
この写真作品は成立しませんでした。その優しさに感謝しています。
私が思想的な拠り所としているフランスの哲学者、ジャン=リュック・ナンシーは
触れられないことは絵画にとって本質的である。触れられないことはイマージュ一般にとって
本質的である」と言っています。
有名なテーマである「ノリ・メ・タンゲレ」(復活を遂げたイエスがマグダラのマリアと出会い、
出発を告げるシーン)を描いた多くの絵画(レンブラントの「マグダラのマリアに姿を現わすイエス」
など)を参照しながら、その絵画表象にひそむ、触覚と視覚、出現と消滅、欲望と暴力、愛と真理、
身体と感覚、生と死などが絡み合う構造を分析した『私に触れるな(ノリ・メ・タンゲレ)』という
その本の中で彼が述べているように、イエスがあくまでごくありふれた園丁の姿で現れたからこそ、
マリアは彼の声を聞き、信じることができたわけです。
現代の日本人にとっても、やはり西洋の文化は近いようで遠いものだと思います。
触れることができない、イマージュでしかない写真は、だからこそ、触れようとしても触れられない
ものに愛情を示そうとする限りにおいて、効果を発揮することができるのではないかと思います。
そしてそれは常に日常的なものの中に、ありふれた姿で存在しています。ひとたびごとに、ある
人その人ごとに感じることのできる愛情を示すこと。
日本から遠くはなれて、リトアニアで知り合った友人たちを撮影した本展覧会は、そうした距離と愛情
の問題を、個人的な仕方で見せることにあります。それは結局叶わないことなのかもしれませんが、
それゆえに、ひとたびごとに、繰り返して示していくしかないのだと思われます。

そして、その「イマージュ=触れられないもの」にまつわる考察は、まずは短い試論として
ムサビの博士課程紀要に提出し、ゆくゆくはそれが博士論文になっていくことでしょう。




permalink  April 24, 2010
「minimissing」を見に来てくださった方には本当に感謝しています。どうもありがとうございました。
これからもどうぞよろしくお願いします。見に来ていただく時間がなかった方には、後ほど、このサイトで展示の様子を紹介したいと思います。

この展示では、私が写真制作において最も重要なものだと思っている、momentとintimeの存在を表わしたいと願いました。写真とは単なるイメージや記録ではなく、その瞬間が存在したということ、そしてその瞬間に感じることのできる内奥の、親密さ(intime)の存在を表わせる可能性への挑戦として、つまり、それらの存在を経験として、まずは自分が、そして写真を見た人が受け取ることができるために、なされるべきだと思うのです。
そのためには、まず写真家は決して傍観者や観客であってはならず、自らが体験した出来事のみを掛け金に、生きていることを感じる(je me sens vivre)ことが必要なのだと思います。現実とは、虚構のない演劇の舞台のようなものであり、それとは反対に、歴史とは起こったことすべてをないがしろにしているわけではないにせよ、意味として立ち上がってきた大きなサインのみをもとに編まれていくものだと感じています。歴史は語るに足らない小さな出来事や存在を退け、大きな物語のみを繋いでいくこと、つまり近代という装置そのものなのです。
そのことが招いたのが、悲劇の観客としての饒舌さ、つまり言論や写真やその他もろもろをすべて想起のみによって語るという過ちでしょう。戦争写真は、それを見た人が悲劇ゆえに快を感ずるという点で、まったく死のポルノグラフィーでしかありません。それに関する言論も、結局は傍観者としての視点から著されることがほとんどであり、経験はそこで雲散霧消してしまうのです。それゆえに、私は戦争に関するカントの饒舌を嫌い、むしろ(実際に戦争に参加した経験のある)老人の沈黙を評価するのです。
私は、そのような傍観者としての歴史から離れて、経験を存在(生)に結びつけていくやり方として、近代以前の哲学者(そして兵士だった)デカルトのことを思いました。
「...彼らは度々教会に行き、多くの祈りを唱え、髪を短く切り、断食をし、施しをするということを口実として、自分は全く完全であると考え、自分は神の有力な友であるから、神の気に入らないことを自分は為すはずはないと想像し、さらには、自己の情念の命ずることはすべて善き熱情であると想像する。しかし彼らの情念は、人間の犯しうる最大の罪を彼らに命ずることがある。例えば自分の思想に賛成しないというだけの理由で、都市を敵の手に渡したり君主を殺したり住民を皆殺しにしたりする」(『情念論』より)
写真について語るのではなく、写真とともに語るのでなければまったく意味をなしません。私が制作をしながら書くことにこだわるのは、それだけが、誠実さを表わす方法だと考えているからです。写真を撮るときにも、相手の存在を自分の内奥の、親密な部分でとらえ、それを経験するのです。
それはある意味で戦いです。しかし、それはアカデミーやアート業界や広く社会といったものとの戦いではなく、自分の内奥の、親密さと瞬間が存在したことを正確に、かつ誠実に、(想起するのではなく)経験することを諦めないための、自分との戦いなのです。

permalink  January 7, 2010
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I would like to invite you to my solo exhibition "minimissing" which will be held from December 14th to 20th (12:00-20:00) at Shinjuku Ganka Garou in Shinjuku, Tokyo.
Opening reception will take place from 18:00 on December 14th.

Hirohisa Koike "minimissing"
December 14th -20th / 12:00-20:00 (last day till 17:00)
新宿眼科画廊 Shinjuku Ganka Garou
5-18-11 Shinjuku, Shinjuku-ku, Tokyo
tel: 03-5285-8822
mail: info@gankagarou.com
website: www.gankagarou.com

Opening reception: December 14th, 18:00-

Hope to see you around.
All the best,
Hirohisa


permalink  December 6, 2009
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